「映画『パプリカ』」についての精神分析的解説
『パプリカ』とは、今敏監督によるアニメ映画であり、原作は『時をかける少女』などの作者でもある筒井康隆です。
映画の冒頭で、粉川警部は不安神経症の治療を求めてパプリカのもとを訪ねている。
パプリカはDCミニという機械によって、夢に侵入し神経症の原因を探ることで治療を行う。
(ところでこのシーン、どう見てもパプリカと粉川との間に肉体関係があったようにしか見えない)
このような、症状の原因を明らかにすることによって、すなわち自由連想によって言語化することで、神経症を治療する手法は、フロイトがカタルシスと名付けたものである。
die Grundtatsache, daß die Symptome der Hysterischen von eindrucksvollen, aber vergessenen Szenen ihres Lebens (Traumen) abhängen, die darauf gegründete Therapie, sie diese Erlebnisse in der Hypnose erinnern und reproduzieren zu lassen (Katharsis), und das daraus folgende Stückchen Theorie , daß diese Symptome einer abnormen Verwendung vo n nicht erledigten Erregungs - größen entsprechen (Konversion).
ヒステリー患者の症状は、彼らに大きな印象を与えながらも忘れられてしまった過去の生活の場面(トラウマ)に基づくという基本的な事実であり、これに基づく治療法は、催眠状態の中でこれらの経験を思い出し、再現させること(カタルシス)であり、そこから推測される理論の断片は、これらの症状は処分されなかった量の興奮の異常な利用(変換)を表しているというものであった。(Zur Geschichte der psychoanalytischen Bewegung 1914)
神経症にはいくつかの種類がある。
粉川警部の不安神経症とは、現代の基準によればパニック障害であると考えてよい。
The fear, helplessness, or horror described in the DSM–IV criteria of PTSD closely resembles the anxiety of the anxiety neurosis and the panic attacks in Freud. As a matter of fact, the DSM–IV description of panic disorder is almost exactly the same as Freud’s description of anxiety neurosis (American Psychiatric Association, 1994; Freud, 1895/1962b, pp. 92–97; Verhaeghe, 2004).
DSM-IVのPTSDの基準で述べられている恐怖、無力感、恐怖は、フロイトの不安神経症やパニック発作の不安とよく似ている。実のところ、DSM-IVのパニック障害の記述は、フロイトの不安神経症の記述とほとんど同じである。(ACTUAL NEUROSIS AND PTSD)
不安神経症の原因は欲動にかかわっている。欲動とはエロスやリビドーのことである。
Inside the field of actual neuroses, he made a distinction between neurasthenia and anxiety neurosis. Later, he added hypochondria as well (Freud, 1914/1957a, pp. 82–85). In all of these cases, the determining cause is connected with an inner tension or pressure from the drive, combined with the impossibility of elaborating this drive psychically. This results in a primary anxiety and/or somatic equivalents of anxiety (Geyskens, 2001).
現勢神経症の分野では、彼は神経衰弱と不安神経症を区別している。後に、彼は心気症も加えた。これらのすべての場合において、決定的な原因は、欲動からの内的な緊張または圧力と、この欲動を心理的に精緻化することの不可能性とが組み合わさって結びついている。この結果、一次不安および/または不安の身体的同等物が生じる。(ACTUAL NEUROSIS AND PTSD)
カタルシスとは症状を言語化することで治療するものであるといってよい。
しかし欲動とは言語的な秩序の外にある。
すなわち不安神経症はカタルシスによっては原理的に治療できないのである。
よってこれはフィクション的嘘である。
映画においてこのように、暗い通路を降りていく描写は深層心理におりていくことを表している場合が多いといってよいと思う。
特にデヴィッドリンチの映画ではそのような描写が非常に多い。
千葉が下りて行ったのは氷室の無意識だろう。
Die Strukturverhältnisse der seelischen Persönlichkeit, die ich vor Ihnen entwickelt habe, möchte ich in einer anspruchslosen Zeichnung darstellen, die ich Ihnen hier vorlege.
Sie sehen hier, das Über-Ich taucht in das Es ein; als Erbe des Ödipuskomplexes hat es ja intime Zusammenhänge mit ihm; es liegt weiter ab vom Wahrnehmungssystem als das Ich. Das Es verkehrt mit der Außenwelt nur über das Ich, wenigstens in diesem Schema. Es ist gewiß heute schwer zu sagen, inwieweit die Zeichnung richtig ist; in einem Punkt ist sie es gewiß nicht. Der Raum, den das unbewußte Es einnimmt, müßte unvergleichlich größer sein als der des Ichs oder des Vorbewußten. Ich bitte, verbessern Sie das in Ihren Gedanken.I should like to portray the structural relations of the mental personality, as I have described them to you, in the unassuming sketch which I now present you with:
As you see here, the super-ego merges into the id; indeed, as heir to the Oedipus complex it has intimate relations with the id; it is more remote than the ego from the perceptual system. The id has intercourse with the external world only through the ego - at least, according to this diagram. It is certainly hard to say to-day how far the drawing is correct. In one respect it is undoubtedly not. The space occupied by the unconscious id ought to have been incomparably greater than that of the ego or the preconscious. I must ask you to correct it in your thoughts.
私は、これまで皆さんに説明してきたような精神的人格の構造的関係を、今皆さんにお見せする淡々としたスケッチに描きたいと考えています。
このように、超自我はエスに合体しています。実際、エディプス・コンプレックスの継承者として、エスと親密な関係にあり、知覚システムからは自我よりも離れています。エスは自我を通してのみ外界と交流する、少なくとも、この図によれば。この図がどこまで正しいかは、今日に至っても判断しがたい。ある点では間違いなく正しくない。無意識のエスが占める空間は、自我や前意識が占める空間とは比べものにならないほど大きいはずです。私はあなたの思考の中でそれを修正していってください。(Neue Folge der Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse 1933)
オイディプスとはエディプスコンプレックスの引用元である。
ギリシャ神話で、宿命により、知らずして父王を殺し、生母を妻としたが、事の真相を知って自ら両目をえぐり取り、諸国を放浪して死んだ。怪物スフィンクスのなぞを解いたことでも有名。エディプス。
エディプスコンプレックスとは、子供の(特に息子の)父親に対する観念(感情)の複合体である。
なお私のコンプレックスは身長だ、のときに遣うような意味はない。
At the conclusion, then, of this exceedingly condensed inquiry, I should like to insist that its outcome shows that the beginnings of religion, morals, society and art converge in the Oedipus complex. This is in complete agreement with the psycho-analytic finding that the same complex constitutes the nucleus of all neuroses, so far as our present knowledge goes. It seems to me a most surprising discovery that the problems of social psychology, too, should prove soluble on the basis of one single concrete point - man’s relation to his father.
最後に、この非常に凝縮された調査の結論として、その結果は、宗教、道徳、社会、芸術の始まりがエディプス・コンプレックスに収斂していることを示していると主張したいと思います。このことは、現在わかっている限りでは、同じ複合体がすべての神経症の核を構成しているという精神分析的な発見と完全に一致している。社会心理学の問題も、人間の父親との関係というたった一つの具体的な点に基づいて解決できることが証明されたことは、私にとって最も驚くべき発見のように思われる。(Totem And Taboo)
具体的には父に対する両価的な愛憎の感情である。
In order that these latter consequences may seem plausible, leaving their premises on one side, we need only suppose that the tumultuous mob of brothers were filled with the same contradictory feelings which we can see at work in the ambivalent father-complexes of our children and of our neurotic patients. They hated their father, who presented such a formidable obstacle to their craving for power and their sexual desires; but they loved and admired him too. After they had got rid of him, had satisfied their hatred and had put into effect their wish to identify themselves with him, the affection which had all this time been pushed under was bound to make itself felt. It did so in the form of remorse. A sense of guilt made its appearance, which in this instance coincided with the remorse felt by the whole group. The dead father became stronger than the living one had been - for events took the course we so often see them follow in human affairs to this day. What had up to then been prevented by his actual existence was thenceforward prohibited by the sons themselves, in accordance with the psychological procedure so familiar to us in psycho-analyses under the name of ‘deferred obedience’. They revoked their deed by forbidding the killing of the totem, the substitute for their father; and they renounced its fruits by resigning their claim to the women who had now been set free. They thus created out of their filial sense of guilt the two fundamental taboos of totemism, which for that very reason inevitably corresponded to the two repressed wishes of the Oedipus complex. Whoever contravened those taboos be came guilty of the only two crimes with which primitive society concerned itself.
これらの後者の結果をもっともらしく思わせるためには、その前提を片側に置いて、騒々しい兄弟の群れが、私たちの子供や神経症患者の両価的な父親コンプレックスに見られるのと同じ矛盾した感情で満たされていたと仮定すればよいのである。彼らは、権力欲や性欲を阻む父親を憎んでいたが、同時に父親を愛し、賞賛していた。父親を排除し、憎しみを満たし、父親と自分を同一視したいという願いを実現した後、これまでずっと押し殺してきた愛情が、自責の念という形で現れてきたのである。それは自責の念という形で現れたが、この例では、グループ全体が感じていた自責の念と一致していた。死んだ父親は、生きている父親よりも強くなってしまった。それまで父親の実在によって阻止されていたことが、その後、息子たち自身によって禁じられた。彼らは、父の代用品であるトーテムの殺害を禁じることでその行為を取り消し、今 自由になった女性への権利を放棄することでその成果を放棄したのである。こうして彼らは、親愛なる罪の意識からトーテミズムの二つの基本的なタブーを作り出したのだが、それはまさにその理由から、エディプス・コンプレックスの抑圧された二つの願いに必然的に対応することになる。これらのタブーに背く者は、原始社会が関心を寄せる唯一の二つの犯罪の罪を負うことになるのである。(Totem And Taboo)
オイディプスは父親に運命を翻弄されており、千葉はその点で父的な権力者である乾の犬である小山内をオイディプスと揶揄したのだろう。
このように乾は「権力欲や性欲を阻む父親」であるといえる。
まさしく小山内はオイディプスであったというわけだ。