滅多矢鱈分析学

滅多矢鱈に精神分析的言説を開陳するブログ、冗談半分です。

統一教会と一億総陰謀論者

安倍元首相銃撃事件によって広く知られることとなった自民党と旧統一教会との癒着は、現在でも解明が不十分である一方、一党優位政党制のもとで選択肢のない国民は野党に期待することもできず、その結果自浄作用も不十分に終わるであろうというディレンマに直面している。

このような苦境のなかで山上容疑者の減刑を求める署名活動が行われるというような、山上を英雄視する声がでることも致し方ない。

たとえ事実解明が不十分であったとしても、もはや癒着は真実であるとみなされ旧統一教会の排除は国民の世論といってもいいだろう。しかし自民党と旧統一教会との癒着は事件が起こる前であれば、陰謀論であるとして見向きもされなかった類のものであることを否定する者はいないだろう。

それが今では自民党改憲草案と統一教会との教義が照らし合わされたり、性に関する多様性法案の遅れについての背景に統一教会の教義が示されたりしている。

旧統一教会側と自民党、改憲案が「一致」 緊急事態条項、家族条項…濃厚な関係が影響?:東京新聞 TOKYO Web

旧統一教会の教えに「LGBTは罪なのです」国会で進まない“多様性”法案との関係は【報道1930】 | TBS NEWS DIG

これらが根も葉もない噂であるなどというつもりはないし、統一教会を擁護するつもりも全くないが、これらが極めて陰謀論的であることについては疑いようもないだろう。

陰謀論の根強さは、陰謀論というシニフィアンの性質にある。

われわれの時代において,一種の包括的な「認知のマッピング」に達する唯一の道は,「陰謀説」というパラノイア的物語であるらしい

「陰謀説」を,すでに見たような,さまざまな政治的な立場によって流用され,最低限の認知のマッピングを獲得できるようにしてくれる,一種の浮遊するシニフィアンと考えたほうがずっと生産的だろう(『サイバースペース,あるいは幻想を横断する可能性』)

そして陰謀論的短絡は自身の内在的な分裂を覆い隠す試みである。

His targeting of the Jews was ultimately an act of displacement in which he avoided the real enemy-the core of capitalist social relations themselves. Hitler staged a spectacle of revolution so that the capitalist order could survive. 
彼がユダヤ人を標的にしたのは、究極的には、真の敵-資本主義社会関係の核心そのもの-を回避するための置換行為であった。ヒトラーは、資本主義秩序を存続させるために、革命の見世物を演出したのである。(『VIOLENCE』)

統一教会に対するバッシングは、日本社会に内在する矛盾(超高齢化社会、GDPの2倍を超える債務残高、円安、コロナ禍、などなど)から目をそらし本質的な問題解決に対する置換行為になりかねない。

すなわち統一教会が主人のシニフィアンとして(クッションの綴じ目として)日本の矛盾に意味づけを行っていくということだ。

The Master adds no new positive content-he merely adds a Signifier which all of a sudden turns disorder into order, into a "new harmony," as Rimbaud would have put it. Take anti-Semitism in the Germany of the 1920S: following their "undeserved" military defeat, the German people were disoriented, thrown into a situation of economic crisis, political inefficiency, and moral degeneration-and the Nazis offered a Single agent which accounted for it all: the few, the Jewish plot. Therein resides the magic of a Master: although there is nothing new at the level of positive content, "nothing is qnite the same" after he pronounces his Word. 
主人は、新しい肯定的な内容を加えることはない。単にシニフィアンを付け加えるだけで、無秩序を秩序に、「新しい調和」に突然変える。1920年代のドイツにおける反ユダヤ主義を例にとると、「不当な」軍事的敗北の後、ドイツ国民は混乱し、経済危機、政治的非効率、道徳的退廃という状況に投げ込まれ、ナチはそのすべてを説明する単一の要因である、少数のユダヤ人の陰謀を提示したのである。そこに主人の魔法がある。肯定的な内容のレベルでは何も新しいことはないが、彼が言葉を宣告した後は「何も同じものはない」のである。(『LESS THAN NOTHING』)

つまりこのようにいえる。

統一教会に関する主張がすべて真実であったとしても、それは病的だ。

Recall,again,Lacan’s outrageous statement that even if what a jealous husband claims about his wife (that she sleeps around with other men) is all true, his jealousy is still pathological; along the same lines, we could say that even if most of the Nazi claims about the Jews were true (they exploit the Germans, they seduce German girls . . .), their anti-Semitism would still be (and was) pathological—because it represses the true reason why the Nazis needed anti-Semitism in order to sustain their ideological position. So, in the case of anti-Semitism, knowledge about what the Jews “really are” is a fake, irrelevant, while the only knowledge at the place of truth is the knowledge about why a Nazi needs a figure of the Jew to sustain his ideological edifice. 
嫉妬深い夫が妻について主張すること(妻が他の男と寝ているということ)がすべて真実であっても、彼の嫉妬は依然として病的であるというラカンのとんでもない発言をもう一度思い起こしてほしい。
同じように、ユダヤ人に関するナチスの主張のほとんどが真実であったとしても(彼らはドイツ人を搾取し、ドイツの女の子を誘惑する・・・)、彼らの反ユダヤ主義は依然として病的である(あった)と言える。なぜなら、それはナチスがその思想的立場を維持するために反ユダヤ主義を必要とした真の理由を抑圧しているからだ。つまり、反ユダヤ主義の場合、ユダヤ人の「本当の姿」についての知識は偽物であり、無関係である。一方、真実の場所にある唯一の知識は、ナチがそのイデオロギー的建造物を維持するために、なぜユダヤ人の姿を必要とするかについての知識である。(『THE PARALLAX VIEW』)

繰り返すが、私は統一教会を擁護するつもりは一切ない。

しかし分かりやすい陰謀論については常に批判的検討しようとする意識が必要である。

浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄林房雄」)