「ユダはなぜ裏切者ではないのか」についてのキリスト教的解説
『HUNTER×HUNTER』には記憶に残るような印象的なセリフが多い。
ウボォーギンの「俺たちの中にユダ(裏切者)がいるぜ」という報告に対して、幻影旅団の団長であるクロロ=ルシルフルは、「いないよ、そんな奴は。それにおれの考えじゃユダは裏切り者じゃない」と返答する。(『HUNTER×HUNTER』9巻p14)
このクロロの考えについて以後言及されることはない。冨樫のこのような読者を馬鹿にしない信頼が、ハンターハンターの名シーンをつくるのであろう。
しかし今回は無粋にもこのクロロのセリフについて解説することにする。
というのもこのシーンが印象に残るのは、ここで読者が「これはどういう意味だろうか」と立ち止まるから、というのも原因のひとつであると思われるからである。
岡田斗司夫の解釈
これは、キリスト教におけるユダっていうのは何なのかっていうと、イエス・キリストを神の子として信じようとして、信じ過ぎたために、他の人に、みんながイエス・キリストは神の子じゃないっていうわけだよね。
他の弟子たちはついていくだけなんだけど、ユダだけは、それをどうしても周りの人間に証明したかった。なので、イエスをローマ人の監督官たちに売って、ひどい目に合わせれば、神が、神の子だから助けるだろうと、それを見ればみんなイエス・キリストのことを救世主として本当に信じてくれるに違いないというのがあります。
これは、ユダがなんでそんなことをしたのかという、1番目の解釈としては「ユダは裏切り者だから」だけども、二番目のアンチテーゼとして、「ユダこそ本当のキリスト教の信者だったから」ただし神を試してはいけないという旧約聖書にある大原則というのを忘れてしまったと。それくらいのポジションになってるから「俺の考えではユダは裏切り者じゃない」と言ったわけだね。
私はこの解釈に賛成しない。
ユダについてはさまざまな神学的な問題が存在する。そのうちのひとつが「イエスは裏切りを予知していた。ならばなぜ回避できなかったのか?」という問題である。
岡田の説はこの問いに答え切れていない。
「なぜならばユダは裏切り者ではなかったからだ。愚か者だったのだ」
確かにクロロのセリフの説明としては十分であろう。しかし「なぜ回避できなかったのか?」という問いの答えとしては不十分だ。
映画『最後の誘惑』
冨樫が作品において多くのオマージュをちりばめることはよく知られていると思う。「淵!い、いやヒ・・・ヒソカ」というセリフの元ネタは伊藤潤二の短編集に収録されている『ファッションモデル』だ。
そしてクロロのセリフにも元ネタがあると考える。それが『最後の誘惑』というマーティン・スコセッシ監督の映画である。
この映画はイエス・キリストの生涯についての斬新な、そして異教徒的な解釈をした映画として有名であり、数多くの批判をあび、何度も製作中止、公開中止の危機に見舞われた作品である。
この映画ではユダの人物像についても斬新な転回を図っている。そしてその解釈は先ほど掲げた問い、「イエスは裏切りを予知していた。ならばなぜ回避できなかったのか?」、に対して完全に答えるものとなっている。
『最後の誘惑』においてユダは最後までイエスを敬愛した弟子として描写される。そして彼がイエスをローマ軍に銀30枚で売り渡したのは憎しみのためではなく、イエスに頼まれたからである。
なぜそのようなことを頼んだのか。イエスは自らが磔刑され人類を救済する覚悟はできたが、自分自身で死にに行くことに対して恐れを克服できなかった。そこで彼は最も信頼できる弟子であるユダに、自分を殺すための手助けを求めたのだ。
このように解釈すればユダがキリストに接吻したことの意味がわかる。一般にこの接吻は皮肉をこめたものとして理解されているが、そのような無理やりな解釈をする必要はないであろう。
立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。
そして、イエスがまだ話しておられるうちに、そこに、十二弟子のひとりのユダがきた。また祭司長、民の長老たちから送られた大ぜいの群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。
イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。
彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。
(マタイによる福音書 26章46節~49節)
以上により、クロロが「おれの考えじゃユダは裏切り者じゃない」といった理由が説明できたと思われる。ユダは裏切り者ではなく最も信頼された弟子だったのだ。
「イエスは裏切りを予知していた。ならばなぜ回避できなかったのか?」の答えは、「裏切りはイエス自身が頼んだものだったから」である。