滅多矢鱈分析学

滅多矢鱈に精神分析的言説を開陳するブログ、冗談半分です。

述語制とは何か

ひとまず引用を置いておくが、実際に書籍を読まなければよくわからないと思われる。

時間があればもう少しわかりやすくしますがひとまずこれで。

なお金谷信者にならないために田川拓海氏のエントリーは必読です。特に生成文法について金谷はほとんど何も知らずに批判しているのでその認識は改めたほうが良い。ただし俺はこれを読んだうえでも金谷の主張のほうが納得できるかな。金谷の最も根幹的な主張は下記の三基本文説にあり、金谷を論破するためには端的にこの主張を批判すればよいのだが、それがなされていない以上、他のどんな枝葉の誤謬を指摘されたとしても金谷の理論が死ぬことはないと思われる。もっとも五文型だの三基本文だのは教育上の概念であり、そもそも生成文法とは相容れない概念のような気がするがまあ素人なんで分からん。
もっとも田川氏は「金谷氏の提案している論の問題点はむしろ「特別なオリジナリティが見受けられない」というところにあると思うのですよね。…金谷氏の論考には体系性が無いわけでもありませんし、「一見突拍子も無い考え」でもありません。むしろ、専門家からすれば「それはもう議論/主張されてるけど…」という類のものなのです。」と書いていることだし論破する気は別にないのだろうが。ただしこれに関しては、主語制と述語制の区別から非分離という概念を創出したところについてオリジナリティがあると思うのだがどうだろうか。さらにそのような学会的に主流のアイディアであるにもかかわらず一般人はほとんど誰も知らなかった主語不要論を広めたという功績も評価すべきではないのだろうか。
田川氏も「日本語文法を分析する際に「主語」という概念を採用しない、という立場は、葬り去られた/忘れられた/過小評価されている、ようなものでも、少数派ですらありません。むしろ現在では主流の一つ、標準的な考え方といって良いでしょう」と書いていることだし、金谷は生成文法批判などせずに学校文法批判にとどめておけばよかったように思える。

→長くなりそうなので個人的な所感

述語制

日本語に主語はいらない

日本語の基本文は数が少なく、かつ驚くほど短い。(p37)
名詞文:N-da(赤ん坊だ)
形容詞文:Adjective(愛らしい)
動詞文:Verb(泣いた)

アンドレ・マルチネの主語の定義(p57)
主語はその具体的振る舞いにおいてのみ定義づけられるものだ。ある要素が述語と不可分に現れるなら、それは主語である。この不可分性を持たないものは主語ではない。それは形や文中の位置がどうあれ、他の補語と同じく一つの補語にすぎない。
学校文法が主語とするものは実は「意味上の主語」であることが多い(p66)

三上は、まず係助詞「は」と、「が」及び「を・に・と・で」など格助詞とを峻別する。格助詞は動詞との文法関係を示すが、係助詞は示さないのである。が格の名詞句は主語となりえず、単なる「主格補語」にすぎない。(p67)
「補語」とは「文に不可欠ではない」の意味である(p71)

三上によれば、助詞「は」の働きは節を越え、文さえ越えることができる(p117)
このスーパー助詞が複数の述語と持つ関係は「文法関係」ではないことを明らかに示し、間然とするところがない(p119)
スーパー助詞「は」はそれがかかる文の盆栽ツリーの内部にはなく、その外に立つことになる。つまり「は」が示す主題は、文から切り離されるのだ。(p120)

 

述語制言語の日本語と日本文化

主語が不可欠な言語は、パルムターの報告によれば、地球上に8つしかなく、それが今7つになろうとしているのである。……
具体的に言えば、全ての文に主語が必須な言語は、先ずスウェーデン語、デンマーク語、ノルウェー語、オランダ語、ドイツ語、英語の6つが挙げられる。一方ラテン語から派生したロマンス語諸語の中で、主語が義務的になったのは2つしかない。それがフランス語とスイスで話されているロマンシュ語である。(p18)

日本語話者の視点は「虫の目」、英仏語などの場合は「神の目」(p20)

平和公園の中の慰霊碑の碑銘「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」を…巡って「一体、過ちを繰返さないと誓っているのは誰なのか」という問題が起きたことは知っていたが、それは実に英語の思想に裏打ちされた「主語探し」であるといえないだろうか。…共存と共視が、この慰霊碑では「敵」と「味方」という形をとっている…(p28)

三上は日本語に「主題」はあると言った。あるどころか、日本語にとって極めて大切な概念であり、それの標識が「ハ」である。次に「主格」もあるとした。これは格助詞の「ガ」が目印である。しかし主格で表れる語はあくまでも「補語」であり、主格補語は文の成立に不可欠な要素ではない。…日本語の構文説明に「主語」は不要なのである。(p39)

もはや文法関係が語順でしか表せなくなった英語は、義務的に文頭に行為者をおくようになったのであるが、これが主語の発生に他ならない。(p64)

非分離

日本語の場合は、この「対話の場」に話してと聞き手が一体となって溶け込むということだ。これこそが「非分離の思想」と呼ぶべき日本語の特徴であり、それを可能にしているのは、日本語の基本構文が持つ述語性、つまり主語を構文上なんら必要としない構造なのである。(p50)
日本語では「好いている僕」と「好かれている君」の両方に、「僕が好き」、「君が好き」と同じ格助詞がつくのだから、「僕」と「君」の間に両者の明確な文法的違いはまったくないことになる。(p52)
語形的にも「好きだ」は「好きである」の変化したものだから、太郎も花子も、実は何も「して」いない。文字通りそこに「ある」だけなのだ。…「僕が」と「君が」「好き(という状況)で」そこに「ある」。(p53)

参考

日本語は、つねに語尾において、話し手と聞き手の「関係」を指示せずにおかないからであり、またそれによって「主語」がなくても誰のことをさすかを理解することができる。それはたんなる語としての敬語の問題ではない。時枝誠記が言うように、日本語は本質的に「敬語的」なのである。(柄谷行人「内面の発見」『日本近代文学の起源』1980年)

二葉亭四迷は「敬語なし」の「だ調」を試みたというが、「だ」はやはり相手に対する関係を示しているのだから、広義の“敬語”であることにかわりはない。われわれが話し言葉で「だ」を用いるとき、ふつう同格まはた目下の者との関係においてである。「です」であっても、「だ」であっても、本当は同じことで、関係を超越したニュートラルな表現ではない。にもかかわらず、「だ」調が支配的になっていったのは、それがいわば「敬語なし」に近くみえたからだと思われる。(柄谷行人「内面の発見」『日本近代文学の起源』1980年)

いまさらながら、日本語の文章が相手の受け取り方を絶えず気にしていることに気づく。日本語の対話性と、それは相照らしあう。むろん、聴き手、読み手もそうであることを求めるから、日本語がそうなっていったのである。これは文を越えて、一般に発想から行動に至るまでの特徴である。文化だといってもよいだろう。(中井久夫「日本語の対話性」2002年『時のしずく』所収)

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)

思想史が権力と同型であるならば、日本の権力は日本の思想史と同型である。日本には、中心があって全体を統い御するような権力が成立したことがなかった。〔・・・〕あらゆる意志決定(構築)は、「いつのまにかそう成る」(生成)というかたちをとる。〔・・・〕日本において、権力の中心はつねに空虚である。だが、それも権力であり、もしかすると、権力の本質である。〔・・・〕
見かけの統合はなされているが、それは実は空虚な形式である。私は、こうした背景に、母系制(厳密には双系制)的なものの残存を見たいと思っている。それは、大陸的な父権的制度と思考を受け入れながらそれを「排除」するという姿勢の反復である。
日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人フーコーと日本」1992年)