金谷武洋『日本語に主語はいらない』批判記事一覧を読んでの所感
この記事で紹介したものです。
田川拓海氏の金谷武洋『日本語に主語はいらない』批判記事一覧を読んでの所感です。批判記事全体の要約としては、
- 『日本語に主語はいらない』には生成文法と三上章に関する誤解に満ちている
- 主語があるかどうかは主語の定義による
- 「日本語に主語はいらない」という主張はむしろ主流
- というか生成文法においては主語があるかどうかがそもそも重要なトピックではなく、主語はラベルにすぎない
という感じでしょうか。
つまり田川氏は金谷氏の基本的な主張について(つまり三基本文説について)は批判しているわけではないという認識であっているのだろうか。
だとすれば述語制と非分離思想についても維持できると考えて問題ないだろう。
とりあえず三基本文説についての生成文法からの、あるいは田川氏の意見を聞きたいところだ。
しかし…主語があるかないかすら答えられない生成文法よりも、「主語はない」と言い切ってしまう金谷氏の本がインパクトがあり、一般人に評価されてしまうのは当然だろう。
>結局のところ、金谷さんの著書における、「日本語に主語はいらない」という主張は、間違っているのでしょうか?
という質問には答えるのが難しいですねえ。
とりあえずその命題を額面どおり受け取るとしても、最低でも「主語」の定義と「いらない」で何を表しているか、ということを明らかにしなければなりません。そのためには金谷氏の主張を構成している多数の具体的な議論を追っていかなければなりません。なので、例えば否定的な結論を導き出すとしても、「信頼できない議論が含まれているので、その結論は導き出せない」というようなものになりそうですね。これを「間違っている」と言えるのか…中にはそれなりに妥当な議論も含まれているかもしれませんし。…
なんかごちゃごちゃ書いてしまいましたが、「結論」についての正否は書きたくないですし、僕の力量では書けそうにもないです。議論の「過程」についての是非は気が向いたらいくつか書いてもいいかな、とは考えているのですが(ちょっと最近言語関係の一般書は食傷気味なので)。(金谷武洋『日本語に主語はいらない』批判記事一覧)
とはいえわかりやすいものだから正しいとは考えるべきでないことは肝に銘じておくべきだ。
浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄「林房雄」)
まあとりあえずは金谷氏の主張を排除する必要はないというのが現在の私の考えです。
というよりも文法とは虚構である、とすら思えてきている。すなわち言語学的真理というものは存在しないという意味だ。
金谷氏は『日本語に主語はいらない』において、たびたびオッカムの剃刀の比喩を出すが、ひょっとしてこの立場なんじゃないだろうか。これが田川氏と金谷氏の決定的な違いなのかもしれない。
だとすれば、田川氏は
ここでの問題は、教育に使えるかどうかということと、理論や説明が妥当かどうかということは独立した問題である、ということです。…
そもそも生成文法に限らず、言語学というのは言語が持つ様々な仕組みや性質を理解しよう、という試みなので、その記述や説明の妥当性と教育に使えるかどうかは原理的に関係無いはずです。(『日本語に主語はいらない』に突っ込む:(1)生成文法と日本語教育)
と書いているが、これには全く反対することになろう。
教育につかえるような、薄くて分かりやすい文法こそが最も正しい文法である、たとえそれが浅薄な誤解であったとしても。とでも極論してしまおうか。
なので三基本文説が教育的な観点からも批判されるべきものであるならば、それはすてるべきだろうな。因みに田川氏はこの点について、「「は」は主題」で本当に分かりやすいかという反論をしているのだが、分かりやすいのではないか?
「象は鼻が長い」「僕はウナギだ」という文章を端的に説明できるのだし。
教育的観点については、
金谷氏の学生はアカデミックライティングのレベルまで進んだ時に困惑したりしないのかな、とか思ったこともあるのですが、まあそれは向こうも専門家なのでそれ専用の対処法(カリキュラム)がきちんとあるのでしょう。(『日本語に主語はいらない』に突っ込む:(7)主語の必要性と主語という概念の必要性)
とも書いているのだがこれは主張自体失当というか、口が滑っただけだろう。アカデミックライティングにおける正確な文章の要求と、主語なしでも文章が成立することは別問題である。
まあ、金谷氏についての判断は固めるのは少なくともこれを読んでからにしたほうがよいか。