滅多矢鱈分析学

滅多矢鱈に精神分析的言説を開陳するブログ、冗談半分です。

「混浴年齢引き下げ」についての精神分析的解説

厚生労働省が「衛生管理要領」を見直し、銭湯や温泉など公衆浴場において「おおむね10歳以上の男女を混浴させないこと」としていた指針を、「7歳以上」に引き下げたという記事を見た。

このような小児性被害についての警戒が正当であることは疑いようもなく、私はこの変更に賛成であるし、場合によっては更なる対策も必要であるかもしれない。しかしこの記事には以下のような記述があり違和感を覚えた。

今西さんも、娘が小さいときには一緒に温泉の男湯に入ることもあったそうだ。しかし、ただならぬ視線を感じて、「これはよくない」と感じた。家でも、娘と一緒に入浴していたが、成長するにつれ一緒に入ることをやめた。

「不自然に娘を凝視してくる不審者がいて」ならば納得できるが、「ただならぬ視線を感じて」とは一体…?当然のように、人間の視線に質量はなくそれを感じることなどできない。

ただの文学的レトリックであり、実際は「そのような不審者を目撃した」という事実をそのように表現したというのならばそれでよい。

しかし今回は、文字通り「視線を感じた」ものと仮定して、今西氏を分析してみることにする。すなわち、実際にはそのような不審者は存在しなかったとしたら、という仮定だ。

そもそも窃視症とは何か

窃視症は窃視障害としてDSM-5(精神障害の診断と統計マニュアル)にも登録されている精神障害である。ただし大半の窃視症者は窃視障害の臨床基準を満たさない。

DSM-5の診断基準
窃視障害の診断を下すには,以下の条件を満たす必要がある:

・患者が見られているつもりのない裸の人,脱衣中の人,または性行為中の人を見ることで反復的に強い興奮を覚えており,その興奮が空想,強い衝動,または行動で表現されている。
・患者が同意のない相手に対して衝動を行動に移した,もしくはそのような空想,強い衝動,または行動が著しい苦痛を引き起こしているか,仕事,社会的状況,またはその他の重要領域において機能障害を引き起こしている。
・この状態が6カ月以上認められる。

(MSDマニュアル プロフェッショナル版)

というか、ほとんどの男性は窃視症ではないだろうか。それに対して、これは私の推測だが、女性の窃視症者は極めて少ないのではないだろうか。その証拠に女性が盗撮で捕まったという話はほとんど聞かない。
そうであるならば男性を潜在的性犯罪者として考える一部のフェミニストの主張も一抹の真実を捉えているのかもしれない。

さて、DSM-5の診断基準をいくらながめていても、窃視症者の精神を理解することはできない。やはりフロイトラカンの知見を参考にするしかない。

窃視欲動

フロイトによれば小児には性器の窃視欲動がある。

子供は多くの場合、マスターベーション によって自分の性器に関心を持つようになるのであるが、ひとたび関心を持ち始めると、次第に性器に対する関心を強め、遊び友達の性器にも関心を示すようなる。これが窃視欲動である。

そして、フロイトは欲動には、能動性から受動性に転換される性質があると考えた。すなわち露出症とは窃視症が方向転換した結果である。
フロイトの露出欲動はラカンの視線欲動と対応すると考えてよい。

眼差し

視線欲動(=露出欲動)は他者の「眼差し」によって充足される。これはわざわざフロイトラカンを引かずとも理解できるものと思われる。

ただし、眼差しは露出症者だけでなく窃視症者にも作用することにも注意が必要である。
このことは、窃視者が覗き見行為自体を他者の眼差しによって見られる、というスリルを味わうことで性的な興奮を得ていることが理解されるならば、当然であるといえるだろう。
さらに窃視者において「眼差し」を感じるためには、実際にそこに人がいる必要はない。そこにいるかもしれず、見られるかもしれなければよいのだ。

さてここで娘を混浴風呂に連れてきた父親が感じた「ただならぬ視線」について思い返してみよう。なぜ父親は「不審者がいた」と端的に記述しなかったのか。理由はひとつしかない、不審者などいなかったからだ。

「ただならぬ視線」の正体

それにもかかわらず父親が感じた「ただならぬ視線」とは何か。それはまさしくラカンのいう「眼差し」ではないだろうか。

このことから得られる事実とはすなわち、窃視者とは他ならぬ父親自身であったということになる。父親の感じた視線とは、自身の覗き見行為に対する眼差しだったのだ。

そして父親はその眼差しに対して恥じ入った。すなわち娘を窃視してしまった自分に恥じた。(下記の資料編に記述したように、眼差しは恥と関係がある)

そうであるからこそ、父親は「家でも、娘と一緒に入浴していたが、成長するにつれ一緒に入ることをやめた」のである。
上の今西氏の文はよく考えるとおかしいのだ。混浴で「ただならぬ視線」を感じたことと、娘が成長し家での入浴をやめたことは、なんの因果関係もない。
しかしここまでの分析によってその奇妙さは解消された。彼にとって、前の文と後の文は完全に因果関係があったのである。

【資料編】

フロイトによれば小児には性器の窃視欲動がある。

しかし、(自体愛的な)性感帯の支配が圧倒的な子供の性生活でも、最初から他者を性目標として想定しているような 要素があることを認めざるをえない。こうした種類の性欲動は、ある程度まで性感帯から独立して現れる欲動であり、窃視欲動、露出欲動、残忍性の欲動(サディズム)などがある。これらの欲動は後の段階では生殖活動と密接な関係に入るものであるが、小児期においてすでに、性感的な性活動とは分離した特別な刺激として登場しているのである。幼児はまだ羞恥心を知らず、一定の幼い年頃には、性器をことさら露出しながら、自分の肉体を露出することに、はっきりとした喜びを示すものである。この反対の傾向、すなわち他の人の性器をみたがる傾向も、倒錯として分類できるものであるが、これは羞恥心という 抵抗がある程度まで発達した少年期の後半期の頃には明らかになると考えられる。そして 誘惑の影響のもとで、窃視倒錯は子供の性生活において重要な意味を持つようになると考えられる。しかし健常者と神経症患者の幼年期についての研究経験から、子供の窃視欲動 は自発的な性表現であると結論せざるをえない。子供は多くの場合、マスターベーション によって自分の性器に関心を持つようになるのであるが、ひとたび関心を持ち始めると、他人からの影響なしに、次第に性器に対する関心を強め、遊び友達の性器にも生き生きとした関心を示すようになるものである。こうした好奇心を満足させる機会は、糞尿の排泄欲求を充足する際しか訪れないことが多いため、こうした子供は窃視癖がついたり、他人 の排便や排尿を熱心に見つめたりするようになる。こうした欲求が抑圧され始めると、 (同性または異性の)他人の性器をみたいという好奇心が、悩ましいほどの衝迫として残 る。多くの神経症においては、これがその後の症状形成を進める最大の力となるのである。(エロス論集『性理論三篇』p120)

そして露出症とは窃視症が方向転換した結果である。

性欲動の特徴は、互いに容易に代理 になることができ、対象を簡単に取り替えることができることにある。対象を取り替える ことができるというこの特性によって、性欲動は本来の目標行動とはかけ離れた機能――昇華――を果たすことができるようになる。

欲動の発展と、その一生の〈運命〉を研究するには、十分な知識が得られている性欲動だけに限定する必要があろう。観察によると、こうした欲動の〈運命〉には次のようなものがある。

・対立物への逆転
・自己自身への方向転換
・抑圧
・昇華

〔……〕対立物への逆転を詳細に検討すると、二つの異なるプロセスが存在することが明らかになる。欲動の方向が能動性から受動性に転換されるプロセスと、欲動の内容が逆転するプロセスである。

最初の(欲動の方向転換の)プロセスの実例としては、サディズムマゾヒズム、窃視症と露出症の対立がある。ここでは転換されるのは、欲動の目標だけである。能動的な目標は、苦痛を与えることと覗くことであり、受動的な目標は、苦痛を与えられることと見られることであり、これらが逆転される。 〔……〕自己自身への方向転換について理解するためには、マゾヒズムとは自己に向けられたサ ディズムであり、露出症には、自己の身体を覗くことが含まれていることを考慮する必要がある。精神分析の観察によって疑問の余地なく明らかにされたことだが、マゾヒズムの 主体は、同時に自己に対する憤怒を楽しんでいるのであり、露出症の主体は同時に自己の身体の露出を楽しんでいるのである。このプロセスにおいて本質的なことは、目標が変更されず、対象だけが交換されることである。(自我論集『欲動とその運命』p25)

露出症とはラカンの視線欲動(すなわち被窃視欲動である)である。そしてそれは眼差しと関係している。

In terms of drive-related processes, Lacan (1964, p. 195) more broadly indicates that the gaze is central to scopic drive gratification, and that its main activity consists of “making oneself seen” (“se faire voire” in French). 
ラカンはより広義に、欲動に関わるプロセスにおいて、眼差しが視線欲動の充足の中心であり、その主要な活動は「自分を見られること」(フランス語で「se faire voire」)から成ることを示す。(Lacan’s Construction and Deconstruction of the Double-Mirror Device)

 

(3) Furthermore, the gaze and the voice are linked, respectively, to the Id (drive) and the superego: the gaze mobilizes the scopic drive, while the voice is the medium of the superego agency which exerts pressure on the subject. 
さらに、眼差しと声はそれぞれ、エス(欲動)と超自我と結びついている。眼差しは視線欲動を動員し、声は超自我の審級の媒体として、主体に圧力をかけているのだ。 (Less than Nothing)

眼差しは実際に人間がいなくても機能する。

ce regard dont il s’agit n’est absolument pas possible à confondre avec le fait, par exemple, que je vois ses yeux. Je peux me sentir regardé par quelqu’un dont je ne vois pas même les yeux, et même pas l’apparence, mais que quelque chose me signifie comme pouvant être là. Par exemple, cette fenêtre, s’il fait un peu obscur et si j’ai des raisons de penser qu’il y a quelqu’un derrière, il y a là d’ores et déjà un regard et comme tel, comme sujet, je me modèle, et à partir du moment où ce regard existe, je suis déjà quelque chose d’autre qui consisterait en ce que dans cette relation avec autrui, je me sens moi-même devenir, pour le regard d’autrui, un objet. Mais dans cette position qui est réciproque, lui aussi sait que je suis un objet qui me sais être vu. 

The gaze in question must on no account be confused with the fact, for example, of seeing his eyes. I can feel myself under the gaze of someone whose eyes I do not even see, not even discern. All that is necessary is for something to signify to me that there may be others there. This window, if it gets a bit dark, and if I have reasons for thinking that there is someone behind it, is straightaway a gaze. From the moment this gaze exists, I am already something other, in that I feel myself becoming an object for the gaze of others. But in this position, which is a reciprocal one, others also know that I am an object who knows himself to be seen. 
眼差しは、例えば、彼の目を見るという事実と決して混同されてはならない。私は、目も見えず、識別もできない誰かの眼差しにさらされている自分を感じることができる。必要なのは、そこに他の人がいるかもしれないということを私に示唆するものだけである。この窓は、もし少し暗くなって、その向こうに誰かがいると思う理由があれば、ただちに眼差しとなる。その眼差しが存在する瞬間から、私はすでに何か別のものであり、他者の眼差しの対象となることを実感する。しかし、この相互的な立場において、他者もまた、私が見られていることを自ら知っている対象であることを知っているのだ。(セミネール1『フロイトの技法論』

眼差しは露出症者だけでなく窃視症者にも作用する。

窃視者は、常に-既に眼差しに見られている。事実、覗見行為の目眩く不安な興奮は、まさに眼差しに晒されることによって構成されている。最も深い水準では、窃視者のスリルは、他人の内密な振舞いの盗み見みされた光景の悦楽というより、この盗み行為自体が眼差しによって見られる仕方に由来する。窃視症において最も深く観察されることは、彼自身の窃視である。(Freud as Philosopher: Metapsychology After Lacan)

娘を混浴風呂に連れてきた父親が感じた「ただならぬ視線」とはまさしくラカンのいう「眼差し」である。

すなわち窃視者とは父親自身であったということになる。そして父親はその眼差しに対して恥じ入った。すなわち娘を窃視してしまった自分に恥じた。

(5) How, then, are the gaze and the voice inscribed into the social field? Primarily as shame and guilt: the shame of the Other seeing too much, seeing me in my nakedness; the guilt triggered by hearing what others say about me. Is not the opposition of voice and gaze thus linked to the opposition of superego and Ego Ideal? The superego is a voice which haunts the subject and finds it guilty, while the Ego Ideal is the gaze in front of which the subject is ashamed. There is thus a triple chain of equivalences: gaze–shame–Ego Ideal, and voice–guilt–superego.
(5) では、眼差しと声は、どのように社会的場に刻み込まれるのだろうか。まず第一にに恥と罪としてである。すなわち他人が私の裸を見過ぎてしまうことの恥、他人が私について言うことを聞くことによって引き起こされる罪悪感である。声と眼差しの対立は、このように超自我と自我理想の対立と結びついているのではないだろうか。超自我は、主体に取り付き、主体を有罪とする声であり、自我理想は、主体が恥じる視線である。このように、眼差し-恥-自我理想、声-罪悪感-超自我という三重の等価連鎖が存在するのである。(Less than Nothing)

そうであるからこそ、父親は「家でも、娘と一緒に入浴していたが、成長するにつれ一緒に入ることをやめた」のである。