滅多矢鱈分析学

滅多矢鱈に精神分析的言説を開陳するブログ、冗談半分です。

自粛要請というポストモダン的父

自粛要請のことを言語学で撞着語法というらしい。

撞着語法(どうちゃくごほう、英語: oxymoron)とは、修辞技法のひとつ。「賢明な愚者」「明るい闇」など、通常は互いに矛盾していると考えられる複数の表現を含む表現のことを指す。(weblio)

【自粛】

《名・ス自》自分から進んで、行いや態度を改めて、つつしむこと。

【要請】

《名・ス他》必要な事が実現するように、願い出て求めること。

確かに矛盾した言葉である。

コロナ禍において今や定番ともいえる自粛要請は、禁止命令と比べると、当事者の自由選択に任せている分、寛容なものにみえるかもしれない。

しかしジジェクによれば、このような権威をふりかざさない形の命令は、伝統的権力者による禁止命令よりも一層強力である。

Imagine you or me, I’m a small boy. It’s Sunday afternoon. My father wants me to visit our grandmother. Let’s say my father is a traditional authority. What would he be doing? He would probably tell me something like, "I don’t care how you feel; it’s your duty to visit your grandmother. Be polite to her and so on." Nothing bad about this I claim because I can still rebel and so on. It’s a clear order.
想像してみよう、私は小さな男の子だ。日曜日の午後、父が私を祖母に会わせたい。父は伝統的権力者だとする。彼は何をするか?おそらく彼は私にこう言う。「お前の気持ちはどうでもいい、祖母を訪ねるのはお前の義務だ。礼儀正しくしなさい」。これは何も悪いことではない。なぜなら私はまだ反抗したりできる。明確な命令だ。

But what would the so-called post-modern non-authoritarian father do? I know because I experienced it. He would have said something like this, "You know how much your grandmother loves you, but nonetheless I’m not forcing you to visit her. You should only visit her if you freely decide to do it."
しかし、いわゆるポストモダン的非権威主義的な父親はどうするだろうか。私はそれを経験したから知っている。「おばあちゃんがお前をどれだけ愛しているかは知っているはずだろう。だが、それでも俺はお前に面会を強要しない。お前が自由に決めた時だけ会いに行けばいいんだ」。

Now every child knows that beneath the appearance of free choice there is a much stronger pressure in this second message. Because basically your father is not only telling you, you must visit your grandmother, but you must love to visit it. You know he tells you how you must feel about it. It’s a much stronger order. And I think that this is for me almost a paradigm of modern permissive authority. This is why the formula of totalitarianism is not — I don’t care what you think; just do it. This is traditional authoritarianism. The totalitarian formula is I know better than you what you really want and I may appear to be forcing you to do it, but I’m really just making you do what without fully knowing what you want and so on. 
さて、この2つ目のメッセージには、自由選択の外観の下に、もっと強い圧力があることを、どの子も知っている。なぜなら、父親は、「あなたは祖母を訪問しなければならない」と言っているだけでなく、「訪問するのが好きでなければならない」と言っているからだ。父親は、あなたがどう感じなければならないかを命じている。これは、より強い命令だ。これは私にとって、現代の寛容的権威の範例に近いといえるだろう。だからこそ、全体主義の綱領は、「おまえがどう思おうが構わないから、とにかくやってみろ」というようなものではないのだ。それは伝統的な権威主義だ。全体主義の綱領は、「私はあなたが本当に望んでいることをあなたよりもよく知っている。あなたにそれを強制しているように見えるかもしれませんが、実際には、あなたはあなたが何を望んでいるのかを十分に知らないために、あなたにそれをさせているだけだ」というものだ。(zizek on youtube)

すなわち、伝統的権力者による禁止命令は、その命令に従っていても内心では逆らうことができる。

しかしポストモダン的父による命令は内心であっても逆らうことを許さない。

感染を拡大させないために、あるいは自らが感染しないために、自主的に自粛をしなければならない。

ジジェクはこの文脈において日本を意識していたわけではないと思われるが、「共感の共同体」たる日本においては、このポストモダン的父による全体主義化をより切迫した問題として考えるべきである。

ここに現出するのは典型的な「共感の共同体」の姿である。この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したりその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。そのような「事を荒立てる」ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、じつは、抗争と対立の場であるという「本当のこと」を、図らずも示してしまうからである。(「無責任の体系」三たび)