滅多矢鱈分析学

滅多矢鱈に精神分析的言説を開陳するブログ、冗談半分です。

アンチフェミニズムはフェミニズムの嫡出子である

 

なぜフェミニズムはアンチフェミニストを不可避的にうみだすのか

アンチフェミニストの主張としては典型的であろう、次のような匿名記事を発見した。

昔のフェミも今のフェミも、やっていることは結局一緒で、同じ原理で動いているに過ぎないからだ

どちらも既存の男の好みや社会の要請をトレースし、それに対して丁寧に逆張りしているだけである

しかし本音にしてみればぶっちゃけ「嫌いな男の嫌がることをしたい」もう本当にこれだけである(「ミニスカートは女性解放の象徴だったのに」というアンチフェミの無意味さについて)

フェミニズムは多くの問題を抱えており、さらに悪いことに、フェミニストの多くはそれを否認していることは間違いないが、このようなフェミニズムミサンドリーを等号で結んで論破しようとする「無意味さについて」も、自覚的になったほうがよいだろう。

しかしこのようなアンチフェミニストの過剰な反応の原因はフェミニズム自体に存在する。それはフェミニズムの暴力性についてフェミニストが無自覚ないし否認しているところにある。

「ハラスメント」という言葉の一般的な使い方では、この基本的な意味が、他の現実の人間、その欲望、恐怖、快楽に過度に接近することを非難するものへと、気づかないうちに変化しているのである。(How To Read Lacan)

事実上、あなたのすることすべてが誤解される可能性があるのです。例えば、アメリカで実際に起こったことです。女性の目を見ただけで、視覚的レイプと非難されたのです。汚い言葉を使ったら、言葉による強姦で訴えられた。あなたのすることは、実質的にすべて攻撃的と解釈される可能性があるのです。私たちは、他者への過剰な接近を暴力と認識する。私が興味深いのは、一方では爆発的な暴力がありながら、他方では「あまり私に近づかないで」とさえ言う、極めて保護的な態度があることです。ポリティカル・コレクトネスという言説には、極端な暴力が隠されているのだ。(Demanding the Impossible)

アンチフェミニズムとは暴力に対する反作用である。

彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。(『徴候・記憶・外傷』)

もちろんレイプという構造的に男性から女性にしか向けられない暴力に対抗するために暴力を用いるのだ、と自覚的に主張する分にはある程度の説得力をもつかもしれない。

しかし問題はこのようなゼロ・トレランス方式が実現不可能な点にある。

なぜフェミニズムの提案は失敗するのか

フェミニズムの失敗は自己欺瞞にある。

女性の性の解放とは、(男性にとっての性的対象として)「客観化」されることから潔癖主義的に身を引くことではなく、自己の客観化を積極的に弄ぶ権利、望むままに自分を提供したり身を引いたりすることなのです。(LIKE A THIEF IN BROAD DAYLIGHT)

「自己の客観化を積極的に弄ぶ権利、望むままに自分を提供したり身を引いたりする」という要求を隠したうえで、「潔癖主義的に身を引く」といういささか聞こえのいい要求をすえてしまったことによって、フェミニズム男女の間に戦争を起こそうとする、現実離れしたイデオロギーとなってしまったのではないだろうか。

言ってしまえばこのような主張は、そのままでは明らかに無茶な主張を家父長制打倒イデオロギーに適合するように体裁を取り繕ったものに過ぎない。

「潔癖主義的に身を引く」ためには、フェミニストは女性のポスターに対して徹底的に抗議しなければならないし、Vtuberの仕事をなんとしても奪わなければならない。たとえAV女優がどのように主張したとしても、それは性的搾取であり是正させなければならない。

この欺瞞が典型的に表れるのは女性の服装の自由についての主張である。

服装というのは他者(多くは異性)の眼差しによって規定される自己イメージでしかないはずなのに、「潔癖主義的に身を引く」というマニフェストを破綻させないためには、おしゃれのため、自己満足のために着ているのだ、という無理のある主張をすることになる。

すなわち、真の要求は「私が誘惑したいと思った人にだけ私の媚態をみせる」ことであるのに、それを隠蔽するための要求は(究極的には)「私がたとえ全裸であってもそれを性的に見るな」という理解しがたいものになってしまう。

なお服装の自由についての女性の男性に対する理解のなさ(すなわち男性における視覚の優位性への無理解、もちろんその逆もあるが)については男女の非対称性が関係している。

《Which part of the body is most intensely used while masturbating? ーーThe ear. 》(THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE)

簡単にいえばこれの男バージョンが「The eye.」になるということだ。

もっとも非対称性とはこれにとどまらない複雑な問題であり、なぜ女性が服装の自由をこうも主張するのか(男性の多くはスカートを履かせろ、へそ出しをさせろとは決して言わない)については、被愛妄想とフェティッシュ形式という男女の愛の形式の違いが関係している。

 

さらに問題があるのは、これを達成するために、フェミニズムゼロ・トレランス方式の形式的な法制化を要求することだ。

たとえば男は手順を一つ進めるごとに,前もって相手の女に明示的な許可を求めなければならないという規則(「ブラウスのボタンをはずしてもいいかい」などと)である。

このような規則を制定することの問題は、セクシャリティの次元において明示的な法制化が可能であるという誤認にある。なぜならそれは純粋な内面的道徳と外面的合法性との両端の中間に位置するものであり、曖昧で不正確な次元にあるからだ。

享楽は定義上、過剰である。性的な誘惑や提案はそれ自体、押しつけがましく、邪魔なものであるため、その「適切な尺度」を定義しようとするあらゆる試みは失敗する。(Revolution at the Gates)

じゃああなたは男女同権に反対なんですね

じゃああなたは男女同権に反対なんですね!差別主義者の男根主義者め!

数年前、ニューヨーク公立図書館で行われた公開討論会で、バーナード=アンリ・レヴィは自由主義的寛容さを哀れなまでに訴えた(「支配的な宗教を、殺される心配なしにバカにできる社会に住みたいとは思わないか?女性は好きな服を着て、好きな男性を選ぶ自由がある。」等々)、私は共産主義について同じように哀れな言い分を述べた(「食糧危機、生態系の危機、知的財産や生物遺伝学のような問題にどう対処するかの不確実性、国家間や国内での新しい壁の建設によって、市場や国家管理とは根本的に異なる新しい集団行動の形を見出す必要性はないだろうか」)。皮肉なことに、このような抽象的な言い方をされると、お互いに納得せざるを得ない。自由市場を支持する反共産主義の強硬派であるレヴィは、「この意味では、彼でさえ共産主義に賛成している」と皮肉っていた......。この相互理解の感覚は、私たちがともにイデオロギーに膝まで浸かっていることの証左であった。「イデオロギー」とは、まさにそのような単純化された「本質」への還元であり、実際の意味の密度を提供する「背景雑音」を都合よく忘れてしまうものである。このような「背景雑音」の消去は、まさにユートピアの夢想の核心である。(LIVING IN THE END TIMES)

追記

この記事で批判しているフェミニストとは「家父長制とは女性を抑圧する諸悪の根源である」と無邪気に主張してしまうフェミニストを指す。