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戯言シリーズの凄さ、魅力

私は京都が好きなので戯言シリーズが好きです。

あるいは戯言シリーズが好きなので京都が好きです。

それは別にどちらでもいいのですが、戯言シリーズは不意に再読したくなってしまう作品である。その時はたいてい読みたくなった巻を適当に読むのだが、今回はクビシメロマンチストを読んでみた。

戯言シリーズのあるいは西尾維新の何が好きなのかといえば一言では言いづらい。というか自分でも言語化できないのだが、まずは作品の雰囲気である。

私が本を読むときに一番重視しているのは雰囲気、あるいは空気感であり、それが好みでない作品は全く読む気がしない。併しどのような空気感が好きなのか具体的にと云われるとこれもうまく表現できない。

草稿なしで文を書き推敲もするきもないため話が脱線してしまったので閑話休題

今回クビシメロマンチストを読んでみて再確認した戯言シリーズの凄さは、いーちゃんというキャラクターを主人公、さらに云えば語り手、に据えてしまったという点にある。

例えば私は京極堂シリーズを愛読しているが、この作品の語り部は基本的に関口巽という人物である。京極堂シリーズには魅力的な登場人物がおり、主人公といえるのは京極堂である。しかしこの関口という語り部は正直一般人という感じであり魅力的とはあまり思えない人物である。しかしなぜ魅力的な登場人物をさしおいて彼を主人公にしているのかといえば、思うに魅力的な登場人物を魅力的なままで維持するためである。実際生活においてもそうであると私は考えているのだが、人間は話せば話すほど底が見えてしまうものであり、いつまでも魅力的であり続けるというのは難しいものである。であるから作品の語り部として独白までもすべて審らかにしながら、その人物の魅力を維持することは難しい。さらにもっと現実的な問題として、面白い人物の内面描写をするというのは難しいという問題がある。例えば京極堂シリーズでいえば、榎木津の内面描写をすることは難しいという話である。はっきりいってしまうと私は、関口を語り部としたことは京極夏彦の実力不足に由来することと思っている。即ち、それだけの人物を描くことが出来なかったということである。

翻って戯言シリーズに目を向けてみると、西尾維新いーちゃんという怪人の魅力を、全巻を通して内面描写をしているにも関わらず、最後まで底をみせてしまうことなくえがききっている。

まず最初にこれだけの人間を生み出してしまうというだけでも西尾維新の独創性は称賛に価すると思うが、それを使い惜しみすることなく、処女作において語り部として据えてしまうという、その勇気もほめたたえたいものである。

これが私が再確認した戯言シリーズの魅力である。

上で期せずして京極夏彦を批判するようなことをかいてしまったが、私は京極堂シリーズも大好きな作品であり、今回はふたつのシリーズのほんの一面を切り取って、本来は優劣つきがたいものを無理やり評価してしまっただけということを理解していただきたい。

 

異常ありがとうございました。

 

 

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