シエスタ

非公式K大オカルト研究会会長によるHP

西田幾多郎に関してメモ書き

 

善の研究における西田哲学の特徴

第二編を中心に

 

最初の問題提起

物そのものも心そのものも客観的に直覚することは不可能

因果律のために物心そのものの存在を信じることができる

因果律とは、意識現象の変化から起きた思惟の習慣

ではその妥当性はあるのだろうか

 

疑いようのない直接の経験→直覚的経験の事実、即ち意識現象についての知識

これを基礎として積み上げた知識ならば妥当

ただしここでいう意識現象とは本来は意識現象とも物体現象とも名付けられないものを無理やり定義したもの→真に純粋経験の事実、知情意を一にした主客未だ分かれざる独立自全の真実性

 

疑いようがない理由

意識現象は最も直接的、意識現象を離れて物体現象を推量できないという点で本質的

 

客観的世界への適用→各人の意識の統一が客観的世界の統一をつくる

 

すべての実在の背後にある統一的或物の証明

ある性質が他の性質と比較し区別されるためには両性質が根本において同一でなければならない

それは物体現象では物力、精神現象では意識の統一力

しかし物体現象と精神現象は純粋経験の上では同一

 

個人的考察

意識現象を根本とする論理は理解できるが、唯物論に対する優越を決定的に示すことできてはいないのではないか 

西田は唯物論に関して、意識現象と自然現象が同一の法則に従うという仮定のもとに成り立つ議論でしかなく薄弱であるというが、純粋経験のうえで同一という議論も同じように薄弱ではないのか

西田は我々の意識の統一とは異なった世界を我々とは没交渉の世界として切り捨てている(岩波善の研究p82)が、切り捨てるには議論不足ではないか

 

三章

この純粋経験がどのように善の研究へとつながるのか

 

善を内面的必然によって説明する

善とは自己の内面的要求を満足する者、最大の要求とは人格の要求

つまり人格の実現が絶対的善

つまり善行為とは直接経験の状態におい自覚した内面的要求に従った行為

 

個人的感想

西田は善の研究していない

調べてみると善の研究というタイトルはもとは純粋経験と実在というタイトルだったらしい

そちらの方が本の要旨にあっている